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第5話 骨の指

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-07-27 19:22:41

「今夜、こいつの手を開ける」

 燈夜が宣言すると、部室の長机へ白い市松人形を投げ出した。

 硬い頭が天板へ当たり、内側で幾つもの歯が鳴る。亀裂の入った頬は前日より白く乾き、口元には暗赤色の筋がこびりついていた。三十三本の歯は見えない。唇を固く閉じ、何かを飲み込んだ直後のように頬だけが僅かに膨らんでいる。

 右手の小指には、古びた赤い糸が絡んでいた。

 ちとせが人形へ顔を近づける。

「これ、昨日はなかった」

「おまえのお守りと同じじゃねえの?」

 燈夜は自分の手首を見せた。全員へ配られた赤白の組紐は、煙草の灰で汚れながらも残っている。

「同じ糸じゃない。もっと古い」

「糸なんかどうでもいい。歯であれだけ騒いだのに、まだ偽物だって言ってるやつがいる」

 燈夜は配信用端末を指で叩いた。

 投稿済みの検証動画は、朝までに二十万回以上再生されていた。咀嚼音が勝手に追加されたことを、怜吾は四人へ報告した。だが燈夜は驚くより先に、その音を短く切り抜いて告知へ使った。

 元データに存在せず、投稿先の映像にだけ現れた音。それさえ燈夜にとっては恐怖より利用価値の方が大きかった。何者かが自分たちを怖がらせようとしているなら、そいつごと撮ればいいと笑った。

 偽物なら証明する。

 本物でも壊す。

 どちらへ転んでも数字になるというのが、燈夜の考えだった。

「腹を切るって言ってなかった?」

 イオは部室の隅にあるソファへ座り、紙コップのアイスコーヒーを飲んでいた。話す時も、欠けた奥歯を見せまいと唇を大きく開かない。

「胴を壊したら中身が飛び散るかもしれない。指なら仕掛けが単純だ」

 怜吾は長机の周囲へカメラを配置していた。正面、真上、手元の接写用。人形の内部へ手を加えることには反対したが、燈夜が止めないと分かると、破壊前の状態だけでも記録しようと準備を始めた。

「撮影中に余計なところ触るなよ。断面へ皮脂が付く」

「まだ研究者ごっこする気か?」

「おまえが壊したあとで警察に押収される可能性もある。人の骨だったら、器物破損だけじゃ済まない」

「じじいの話、信じてんじゃん」

「可能性の話」

 怜吾は素っ気なく答え、黒い手袋をはめた。

 美怜は鏡の前で口紅を塗り直していた。自分の歯を一本ずつ舌で確かめる癖がついていたが、誰にも気づかれないよう、カメラへ向き直る前に笑顔を作る。

「配信、始めるよ」

 午後七時。

 部室の外では、講義を終えた学生たちの声がまだ廊下を行き交っていた。扉一枚を隔てた日常のざわめきが、遮光カーテンを閉めた室内では遠く聞こえる。

 ライトが点灯し、人形の白い顔だけが闇から浮かび上がった。

「〈KOWASU〉特別解剖、第二弾」

 美怜が人形の右手を持ち上げる。

「人間の歯が三十三本も生えてる白い子ちゃん。じゃあ、手の中には何が入ってるんでしょうか?」

 待機していた人数が一斉に接続し、数秒で一万人を越える。

「候補は針金、木、プラスチック。本物の骨だと思うやつは投げ銭で予想して」

「金取るのかよ」

 イオが笑い、美怜は舌を出した。

 燈夜が人形の右腕をつかむ。

 袖を肩まで捲ると、白い手首から指先まで細かな亀裂が走っていた。皮膚に見える部分は硬いが、関節の周囲だけは僅かに柔らかい。小指はほかの指より短く、内側へ曲げられたまま固まっている。

「先に計測」

 怜吾が定規を添え、接写する。

「右小指、全長三・七センチ。表面は陶器質。付け根と第二関節に隙間がある」

「長い。折るぞ」

「待て。どこに力が――」

 燈夜は両手で人形の小指をつまみ、外側へ反らした。

 白い指が軋む。

 きい、と細い声に似た音がした。

 燈夜は口角を上げ、さらに力を込める。人形の腕全体が机から浮き、黒髪が天板を滑った。

「嫌なら動けよ」

 指先を捻る。

 ぱきん。

 乾いた音とともに、小指が第二関節から折れた。

 白い破片がライトを弾き、机へ散る。砕けた陶器の内側から、細い棒状のものが露出していた。

 乳白色の芯。

 表面は滑らかではなく、縦に細い筋が走っている。折れた中央には小さな空洞があり、その周囲を硬い層が囲んでいた。先端は丸く膨らみ、隣の芯と噛み合う関節の形をしている。

 燈夜の笑みが止まった。

「針金じゃねえな」

 怜吾が人形の手を受け取り、断面へレンズを寄せる。

「プラスチックだろ」

「中が空洞なのに?」

 ちとせが机の反対側から覗き込む。

「成形方法によっては空洞になる。外側の筋も加工痕かもしれない」

「関節の丸みまで作る必要がある?」

「可動させるためなら」

「この指、元から動かなかったよ」

 ちとせの指先が、折れた断面の寸前で止まる。

「人間の指の骨に似てる。子どもの中節骨。外側の硬いところと、内側の空洞まで」

「見ただけで断定するな」

「断定してない。似てるって言ったの」

 怜吾は磁石を近づけたが、白い芯は反応しなかった。細い針で削ると巻き屑ではなく、灰色と黄土色の混じった粉が落ちた。

「樹脂なら削った面に光沢が出る。これは出ないな」

 怜吾が呟く。

「じゃあ骨?」

 美怜が問う。

「木材や石膏でも似た粉は出る。成分を調べない限り分からない」

 怜吾は粉を透明な袋へ封じ、日時と採取位置を書き込んだ。

 ちとせは折れた指先を見つめている。

「骨で人形を作るなら、普通は細かく砕いて胡粉へ混ぜる。こんなふうに関節の形を残して芯へ使うのは、人形を人に似せたいからじゃない」

「じゃあ何だよ」

「人の方を、人形の形に残したかったんだと思う」

 燈夜が鼻で笑ったが、声は出なかった。

 怜吾はピンセットで陶器片を除いた。白い芯の側面へ、赤黒く乾いた繊維が絡んでいる。糸に見えたが、一本ずつが枝分かれし、芯に開いた小さな穴へ入り込んでいた。

『完全に骨』

『プラスチックなら溶かせる』

『病院に持っていけ』

『通報した』

『人形の顔見て』

 美怜が最後のコメントを拾い、人形へカメラを向ける。

 白い顔に変化はない。

 ただ、閉じていたはずの唇が少し開き、歯の先が覗いていた。口角から透明な液が一筋、顎へ伝っている。

「泣いてんの?」

 イオがソファから尋ねる。

「涎じゃない?」

 美怜はティッシュで拭おうとした。

 人形の歯が閉じた。

 指先まで数センチの場所で、かちり、と噛み合う。

 美怜は手を引き、誤魔化すようにティッシュを燈夜へ投げた。

「プラスチックか確かめてよ」

「簡単だろ」

 燈夜がポケットから金属製のライターを取り出す。

「待て」

 怜吾が制止する。

「燃やしたら成分が変わる。先に削って試料を――」

「プラスチックなら溶ける。骨なら燃える。配信で分かりやすい方がいい」

「換気設備もない」

「窓開けろよ」

 燈夜は人形の手を持ち上げ、露出した白い芯へ火を近づけた。

 青い炎の先端が触れる。

 初めは何も起きなかった。

 プラスチックのように軟らかくもならず、表面へ煤が付くだけだった。燈夜は苛立ち、炎を強く押し当てる。

 白い芯の内側から、小さな泡が滲んだ。

 じゅ、と脂の焼ける音がする。

 煙が立った。

 細く白い煙は天井へ昇らず、五人の顔の高さを這うように広がった。焦げた髪と古い肉を一緒に焼いたような臭いが、部室中へ充満する。

 イオが激しく咳き込んだ。

「臭っ……何これ」

 美怜は袖で鼻と口を覆い、窓へ向かう。遮光カーテンを開けた瞬間、廊下の明かりが差し込み、煙の中に小さな人影を浮かび上がらせた。

 部室の奥。

 誰も座っていない椅子の前。

 白い服を着た女の子が立っているように見えた。

 美怜が瞬きをすると、煙が崩れた。

 そこには空の椅子しかない。

「換気扇!」

 怜吾の声で我に返り、美怜は壁のスイッチを押した。低い唸りとともに煙が吸い上げられていく。

 燈夜はまだライターを離していなかった。

 白い芯の表面が茶色く焦げ、細かな亀裂が走っている。溶けた形跡はない。

 怜吾が断面へライトを当てると、焦げた層の奥に蜂の巣のような細かな穴が見えた。

「熱可塑性の樹脂なら形が崩れる。これは炭化してる」

「骨も燃えるの?」

 イオが鼻を押さえたまま尋ねる。

「有機質を含んでいれば焦げる。髪や爪と同じ成分もある」

 怜吾自身が、部屋に残る臭いを確かめるように黙った。森部の声が、美怜の耳に蘇る。

 ――それは、人の中身で作ったものだ。

「もういい。火を消せ」

 怜吾が燈夜の手首をつかんだ。

 その瞬間だった。

 ぽき。

 人形ではない場所から、音がした。

 燈夜の右手。

 ライターを握っていた小指が、第二関節から外側へ曲がっている。

 人形の折られた指と、同じ角度だった。

 燈夜は数秒、自分の手を見つめた。

 痛みが遅れて届いたように、喉の奥から短い息が漏れる。額へ汗が浮き、眉間に深い皺が寄った。

「燈夜、その指」

 美怜の声が掠れた。

「さっき机にぶつけた」

「ぶつけてないよ」

 イオが即座に否定する。

「ぶつけたっつってんだろ」

 燈夜は笑おうとした。

 口角は上がったが、頬が引きつっている。曲がった小指を左手でつかみ、元へ戻そうと力を込めた。

 関節の内側で、何かが動いた。

 かり。

 小さな爪が、骨の空洞を内側から引っかくような痛みが走る。

「っ……」

 燈夜の膝が机へ当たった。

「病院行った方がいい」

 ちとせが手を伸ばす。

「触んな!」

 燈夜は腕を振り払った。

 その動きに合わせ、折れた人形の小指が机の上で跳ねる。

 誰も触れていない。

 小さな骨の芯が天板を叩き、燈夜の指の内側でも同じ音が返った。

 かり、かり。

 皮膚の下から引っかかれるたび、燈夜の指先が痙攣する。爪の色が白くなり、関節の周囲だけが赤黒く腫れ始めた。

 燈夜はポケットへ手を隠そうとしたが、その前に小指の皮膚が内側から持ち上がった。

 爪の先ほどの小さな膨らみが、付け根から第二関節へ移動していく。かり、と音がするたび、皮膚の下を進み、曲がった箇所で止まる。

 そこから同じ道を戻った。

 見間違いではなかった。美怜も、イオも、怜吾のカメラも捉えている。

「中に何かいる」

 イオが囁く。

「腱が動いてるだけだ」

「腱は爪立てないでしょ」

「うるせえ」

 怜吾が保冷剤と固定用テープを差し出した。

「少なくとも冷やせ。神経や血管を傷つける前に整形外科へ行った方がいい」

「配信終わってからでいい」

「終わるまで右手を動かすな」

 燈夜は返事をせず、保冷剤だけを奪った。冷たさが触れた瞬間、指の内側からまた爪を立てられ、奥歯を噛み締める。人形の口も同じように閉じ、三十三本の歯を鳴らした。

「痛いんでしょ」

 美怜がカメラの外から尋ねる。

「痛くねえよ。骨折くらいで騒ぐな」

「骨折してるって認めてんじゃん」

「ぶつけたって言ってんだろ!」

 怒鳴り声が部室に響く。

 直後、燈夜は配信中だと思い出したようにレンズへ目を向けた。二万を越える人間が、曲がった指と青ざめた顔を見ている。

 彼は右手をポケットへ押し込み、椅子へ乱暴に腰を下ろした。

「仕込み成功。びびったやつ、投げ銭な」

 額から流れた汗が顎へ落ちる。

『人形と同じ指曲がってる』

『ぶつけた場面なかった』

『後ろで女の子が手振ってる』

『五人とも見えてないの?』

『これもう配信やめた方がいい』

「女の子?」

 怜吾がコメントへ顔を寄せた。

 時刻は、燈夜が白い芯を火で炙り始めた直後を示している。

 怜吾は配信を続けたまま、遅延確認用の画面を巻き戻した。

 人形の指へ炎が当たる。

 煙が広がる。

 画面の右奥、使われていない木製の椅子。

 そこに誰かが立ち、片手を振っていたと、複数のコメントが同じ時刻を指定している。

 視聴者が切り取った画像が、配信の共有欄へ次々と貼られた。

 肩までの黒髪。膝下まである白い服。俯いた顔は髪に隠れ、上げた右手だけが異様に白い。五本の指のうち、小指だけが外側へ折れている。

 画像ごとに立つ位置や腕の高さは僅かに違う。しかし怜吾の記録映像では、同じ場所に空の椅子しかなかった。

 映像には何もいない。

 煙の濃淡すら、少女の形には見えなかった。

「どこ?」

 美怜が怜吾の肩へ手を置く。

「この椅子。俺には何も見えない」

「私も」

「コメント稼ぎでしょ」

 イオが言ったが、ソファから立とうとはしなかった。

 ちとせは椅子を見つめている。

「あの子、屋敷にもいた」

「見たの?」

「形だけ。美怜もさっき見たんじゃない?」

 美怜は答えなかった。

 煙の中に浮かんだ白い服。細い腕。こちらへ向けて上げられた手。

 手を振っていたのではない。

 指を見せていたのかもしれない。

 怜吾は映像を一コマずつ進めた。

 空の椅子は、部室の備品として置かれた古い木製のものだった。座面には茶色い布が張られ、中央が僅かに窪んでいる。

 炎が骨へ触れた瞬間、窪みが深くなった。

「止めて」

 怜吾が映像を静止する。

「椅子、動いてる」

「脚は動いてないよ」

 イオがモニターを覗き込む。

「座面だ」

 再生速度を落とす。

 誰もいない椅子の布地が、一度大きく沈んでいた。見えない小さな身体が腰を下ろしたように、中央から皺が広がっている。

 煙が晴れる直前、座面はふっと持ち上がった。

 誰かが立ち上がった直後のように。

 それから布地だけが、ゆっくり沈み直していく。

 何も映っていない空間へ向かって、人形の白い顔が僅かに傾いた。

 燈夜のポケットの中で、曲がった小指が同じ方向へ引かれた。

「ぐっ……」

 押し殺した声とともに、彼の身体が椅子からずれた。

 空の椅子の座面が、もう一度深く沈んだ。

 今度は、配信を見ていた全員にも分かるほど大きく。

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