تسجيل الدخول「今夜、こいつの手を開ける」
燈夜が宣言すると、部室の長机へ白い市松人形を投げ出した。
硬い頭が天板へ当たり、内側で幾つもの歯が鳴る。亀裂の入った頬は前日より白く乾き、口元には暗赤色の筋がこびりついていた。三十三本の歯は見えない。唇を固く閉じ、何かを飲み込んだ直後のように頬だけが僅かに膨らんでいる。
右手の小指には、古びた赤い糸が絡んでいた。
ちとせが人形へ顔を近づける。
「これ、昨日はなかった」
「おまえのお守りと同じじゃねえの?」
燈夜は自分の手首を見せた。全員へ配られた赤白の組紐は、煙草の灰で汚れながらも残っている。
「同じ糸じゃない。もっと古い」
「糸なんかどうでもいい。歯であれだけ騒いだのに、まだ偽物だって言ってるやつがいる」
燈夜は配信用端末を指で叩いた。
投稿済みの検証動画は、朝までに二十万回以上再生されていた。咀嚼音が勝手に追加されたことを、怜吾は四人へ報告した。だが燈夜は驚くより先に、その音を短く切り抜いて告知へ使った。
元データに存在せず、投稿先の映像にだけ現れた音。それさえ燈夜にとっては恐怖より利用価値の方が大きかった。何者かが自分たちを怖がらせようとしているなら、そいつごと撮ればいいと笑った。
偽物なら証明する。
本物でも壊す。
どちらへ転んでも数字になるというのが、燈夜の考えだった。
「腹を切るって言ってなかった?」
イオは部室の隅にあるソファへ座り、紙コップのアイスコーヒーを飲んでいた。話す時も、欠けた奥歯を見せまいと唇を大きく開かない。
「胴を壊したら中身が飛び散るかもしれない。指なら仕掛けが単純だ」
怜吾は長机の周囲へカメラを配置していた。正面、真上、手元の接写用。人形の内部へ手を加えることには反対したが、燈夜が止めないと分かると、破壊前の状態だけでも記録しようと準備を始めた。
「撮影中に余計なところ触るなよ。断面へ皮脂が付く」
「まだ研究者ごっこする気か?」
「おまえが壊したあとで警察に押収される可能性もある。人の骨だったら、器物破損だけじゃ済まない」
「じじいの話、信じてんじゃん」
「可能性の話」
怜吾は素っ気なく答え、黒い手袋をはめた。
美怜は鏡の前で口紅を塗り直していた。自分の歯を一本ずつ舌で確かめる癖がついていたが、誰にも気づかれないよう、カメラへ向き直る前に笑顔を作る。
「配信、始めるよ」
午後七時。
部室の外では、講義を終えた学生たちの声がまだ廊下を行き交っていた。扉一枚を隔てた日常のざわめきが、遮光カーテンを閉めた室内では遠く聞こえる。
ライトが点灯し、人形の白い顔だけが闇から浮かび上がった。
「〈KOWASU〉特別解剖、第二弾」
美怜が人形の右手を持ち上げる。
「人間の歯が三十三本も生えてる白い子ちゃん。じゃあ、手の中には何が入ってるんでしょうか?」
待機していた人数が一斉に接続し、数秒で一万人を越える。
「候補は針金、木、プラスチック。本物の骨だと思うやつは投げ銭で予想して」
「金取るのかよ」
イオが笑い、美怜は舌を出した。
燈夜が人形の右腕をつかむ。
袖を肩まで捲ると、白い手首から指先まで細かな亀裂が走っていた。皮膚に見える部分は硬いが、関節の周囲だけは僅かに柔らかい。小指はほかの指より短く、内側へ曲げられたまま固まっている。
「先に計測」
怜吾が定規を添え、接写する。
「右小指、全長三・七センチ。表面は陶器質。付け根と第二関節に隙間がある」
「長い。折るぞ」
「待て。どこに力が――」
燈夜は両手で人形の小指をつまみ、外側へ反らした。
白い指が軋む。
きい、と細い声に似た音がした。
燈夜は口角を上げ、さらに力を込める。人形の腕全体が机から浮き、黒髪が天板を滑った。
「嫌なら動けよ」
指先を捻る。
ぱきん。
乾いた音とともに、小指が第二関節から折れた。
白い破片がライトを弾き、机へ散る。砕けた陶器の内側から、細い棒状のものが露出していた。
乳白色の芯。
表面は滑らかではなく、縦に細い筋が走っている。折れた中央には小さな空洞があり、その周囲を硬い層が囲んでいた。先端は丸く膨らみ、隣の芯と噛み合う関節の形をしている。
燈夜の笑みが止まった。
「針金じゃねえな」
怜吾が人形の手を受け取り、断面へレンズを寄せる。
「プラスチックだろ」
「中が空洞なのに?」
ちとせが机の反対側から覗き込む。
「成形方法によっては空洞になる。外側の筋も加工痕かもしれない」
「関節の丸みまで作る必要がある?」
「可動させるためなら」
「この指、元から動かなかったよ」
ちとせの指先が、折れた断面の寸前で止まる。
「人間の指の骨に似てる。子どもの中節骨。外側の硬いところと、内側の空洞まで」
「見ただけで断定するな」
「断定してない。似てるって言ったの」
怜吾は磁石を近づけたが、白い芯は反応しなかった。細い針で削ると巻き屑ではなく、灰色と黄土色の混じった粉が落ちた。
「樹脂なら削った面に光沢が出る。これは出ないな」
怜吾が呟く。
「じゃあ骨?」
美怜が問う。
「木材や石膏でも似た粉は出る。成分を調べない限り分からない」
怜吾は粉を透明な袋へ封じ、日時と採取位置を書き込んだ。
ちとせは折れた指先を見つめている。
「骨で人形を作るなら、普通は細かく砕いて胡粉へ混ぜる。こんなふうに関節の形を残して芯へ使うのは、人形を人に似せたいからじゃない」
「じゃあ何だよ」
「人の方を、人形の形に残したかったんだと思う」
燈夜が鼻で笑ったが、声は出なかった。
怜吾はピンセットで陶器片を除いた。白い芯の側面へ、赤黒く乾いた繊維が絡んでいる。糸に見えたが、一本ずつが枝分かれし、芯に開いた小さな穴へ入り込んでいた。
『完全に骨』
『プラスチックなら溶かせる』 『病院に持っていけ』 『通報した』 『人形の顔見て』美怜が最後のコメントを拾い、人形へカメラを向ける。
白い顔に変化はない。
ただ、閉じていたはずの唇が少し開き、歯の先が覗いていた。口角から透明な液が一筋、顎へ伝っている。
「泣いてんの?」
イオがソファから尋ねる。
「涎じゃない?」
美怜はティッシュで拭おうとした。
人形の歯が閉じた。
指先まで数センチの場所で、かちり、と噛み合う。
美怜は手を引き、誤魔化すようにティッシュを燈夜へ投げた。
「プラスチックか確かめてよ」
「簡単だろ」
燈夜がポケットから金属製のライターを取り出す。
「待て」
怜吾が制止する。
「燃やしたら成分が変わる。先に削って試料を――」
「プラスチックなら溶ける。骨なら燃える。配信で分かりやすい方がいい」
「換気設備もない」
「窓開けろよ」
燈夜は人形の手を持ち上げ、露出した白い芯へ火を近づけた。
青い炎の先端が触れる。
初めは何も起きなかった。
プラスチックのように軟らかくもならず、表面へ煤が付くだけだった。燈夜は苛立ち、炎を強く押し当てる。
白い芯の内側から、小さな泡が滲んだ。
じゅ、と脂の焼ける音がする。
煙が立った。
細く白い煙は天井へ昇らず、五人の顔の高さを這うように広がった。焦げた髪と古い肉を一緒に焼いたような臭いが、部室中へ充満する。
イオが激しく咳き込んだ。
「臭っ……何これ」
美怜は袖で鼻と口を覆い、窓へ向かう。遮光カーテンを開けた瞬間、廊下の明かりが差し込み、煙の中に小さな人影を浮かび上がらせた。
部室の奥。
誰も座っていない椅子の前。
白い服を着た女の子が立っているように見えた。
美怜が瞬きをすると、煙が崩れた。
そこには空の椅子しかない。
「換気扇!」
怜吾の声で我に返り、美怜は壁のスイッチを押した。低い唸りとともに煙が吸い上げられていく。
燈夜はまだライターを離していなかった。
白い芯の表面が茶色く焦げ、細かな亀裂が走っている。溶けた形跡はない。
怜吾が断面へライトを当てると、焦げた層の奥に蜂の巣のような細かな穴が見えた。
「熱可塑性の樹脂なら形が崩れる。これは炭化してる」
「骨も燃えるの?」
イオが鼻を押さえたまま尋ねる。
「有機質を含んでいれば焦げる。髪や爪と同じ成分もある」
怜吾自身が、部屋に残る臭いを確かめるように黙った。森部の声が、美怜の耳に蘇る。
――それは、人の中身で作ったものだ。
「もういい。火を消せ」
怜吾が燈夜の手首をつかんだ。
その瞬間だった。
ぽき。
人形ではない場所から、音がした。
燈夜の右手。
ライターを握っていた小指が、第二関節から外側へ曲がっている。
人形の折られた指と、同じ角度だった。
燈夜は数秒、自分の手を見つめた。
痛みが遅れて届いたように、喉の奥から短い息が漏れる。額へ汗が浮き、眉間に深い皺が寄った。
「燈夜、その指」
美怜の声が掠れた。
「さっき机にぶつけた」
「ぶつけてないよ」
イオが即座に否定する。
「ぶつけたっつってんだろ」
燈夜は笑おうとした。
口角は上がったが、頬が引きつっている。曲がった小指を左手でつかみ、元へ戻そうと力を込めた。
関節の内側で、何かが動いた。
かり。
小さな爪が、骨の空洞を内側から引っかくような痛みが走る。
「っ……」
燈夜の膝が机へ当たった。
「病院行った方がいい」
ちとせが手を伸ばす。
「触んな!」
燈夜は腕を振り払った。
その動きに合わせ、折れた人形の小指が机の上で跳ねる。
誰も触れていない。
小さな骨の芯が天板を叩き、燈夜の指の内側でも同じ音が返った。
かり、かり。
皮膚の下から引っかかれるたび、燈夜の指先が痙攣する。爪の色が白くなり、関節の周囲だけが赤黒く腫れ始めた。
燈夜はポケットへ手を隠そうとしたが、その前に小指の皮膚が内側から持ち上がった。
爪の先ほどの小さな膨らみが、付け根から第二関節へ移動していく。かり、と音がするたび、皮膚の下を進み、曲がった箇所で止まる。
そこから同じ道を戻った。
見間違いではなかった。美怜も、イオも、怜吾のカメラも捉えている。
「中に何かいる」
イオが囁く。
「腱が動いてるだけだ」
「腱は爪立てないでしょ」
「うるせえ」
怜吾が保冷剤と固定用テープを差し出した。
「少なくとも冷やせ。神経や血管を傷つける前に整形外科へ行った方がいい」
「配信終わってからでいい」
「終わるまで右手を動かすな」
燈夜は返事をせず、保冷剤だけを奪った。冷たさが触れた瞬間、指の内側からまた爪を立てられ、奥歯を噛み締める。人形の口も同じように閉じ、三十三本の歯を鳴らした。
「痛いんでしょ」
美怜がカメラの外から尋ねる。
「痛くねえよ。骨折くらいで騒ぐな」
「骨折してるって認めてんじゃん」
「ぶつけたって言ってんだろ!」
怒鳴り声が部室に響く。
直後、燈夜は配信中だと思い出したようにレンズへ目を向けた。二万を越える人間が、曲がった指と青ざめた顔を見ている。
彼は右手をポケットへ押し込み、椅子へ乱暴に腰を下ろした。
「仕込み成功。びびったやつ、投げ銭な」
額から流れた汗が顎へ落ちる。
『人形と同じ指曲がってる』
『ぶつけた場面なかった』 『後ろで女の子が手振ってる』 『五人とも見えてないの?』 『これもう配信やめた方がいい』「女の子?」
怜吾がコメントへ顔を寄せた。
時刻は、燈夜が白い芯を火で炙り始めた直後を示している。
怜吾は配信を続けたまま、遅延確認用の画面を巻き戻した。
人形の指へ炎が当たる。
煙が広がる。
画面の右奥、使われていない木製の椅子。
そこに誰かが立ち、片手を振っていたと、複数のコメントが同じ時刻を指定している。
視聴者が切り取った画像が、配信の共有欄へ次々と貼られた。
肩までの黒髪。膝下まである白い服。俯いた顔は髪に隠れ、上げた右手だけが異様に白い。五本の指のうち、小指だけが外側へ折れている。
画像ごとに立つ位置や腕の高さは僅かに違う。しかし怜吾の記録映像では、同じ場所に空の椅子しかなかった。
映像には何もいない。
煙の濃淡すら、少女の形には見えなかった。
「どこ?」
美怜が怜吾の肩へ手を置く。
「この椅子。俺には何も見えない」
「私も」
「コメント稼ぎでしょ」
イオが言ったが、ソファから立とうとはしなかった。
ちとせは椅子を見つめている。
「あの子、屋敷にもいた」
「見たの?」
「形だけ。美怜もさっき見たんじゃない?」
美怜は答えなかった。
煙の中に浮かんだ白い服。細い腕。こちらへ向けて上げられた手。
手を振っていたのではない。
指を見せていたのかもしれない。
怜吾は映像を一コマずつ進めた。
空の椅子は、部室の備品として置かれた古い木製のものだった。座面には茶色い布が張られ、中央が僅かに窪んでいる。
炎が骨へ触れた瞬間、窪みが深くなった。
「止めて」
怜吾が映像を静止する。
「椅子、動いてる」
「脚は動いてないよ」
イオがモニターを覗き込む。
「座面だ」
再生速度を落とす。
誰もいない椅子の布地が、一度大きく沈んでいた。見えない小さな身体が腰を下ろしたように、中央から皺が広がっている。
煙が晴れる直前、座面はふっと持ち上がった。
誰かが立ち上がった直後のように。
それから布地だけが、ゆっくり沈み直していく。
何も映っていない空間へ向かって、人形の白い顔が僅かに傾いた。
燈夜のポケットの中で、曲がった小指が同じ方向へ引かれた。
「ぐっ……」
押し殺した声とともに、彼の身体が椅子からずれた。
空の椅子の座面が、もう一度深く沈んだ。
今度は、配信を見ていた全員にも分かるほど大きく。
夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに