เข้าสู่ระบบ「今夜、こいつの手を開ける」
燈夜が宣言すると、部室の長机へ白い市松人形を投げ出した。
硬い頭が天板へ当たり、内側で幾つもの歯が鳴る。亀裂の入った頬は前日より白く乾き、口元には暗赤色の筋がこびりついていた。三十三本の歯は見えない。唇を固く閉じ、何かを飲み込んだ直後のように頬だけが僅かに膨らんでいる。
右手の小指には、古びた赤い糸が絡んでいた。
ちとせが人形へ顔を近づける。
「これ、昨日はなかった」
「おまえのお守りと同じじゃねえの?」
燈夜は自分の手首を見せた。全員へ配られた赤白の組紐は、煙草の灰で汚れながらも残っている。
「同じ糸じゃない。もっと古い」
「糸なんかどうでもいい。歯であれだけ騒いだのに、まだ偽物だって言ってるやつがいる」
燈夜は配信用端末を指で叩いた。
投稿済みの検証動画は、朝までに二十万回以上再生されていた。咀嚼音が勝手に追加されたことを、怜吾は四人へ報告した。だが燈夜は驚くより先に、その音を短く切り抜いて告知へ使った。
元データに存在せず、投稿先の映像にだけ現れた音。それさえ燈夜にとっては恐怖より利用価値の方が大きかった。何者かが自分たちを怖がらせようとしているなら、そいつごと撮ればいいと笑った。
偽物なら証明する。
本物でも壊す。
どちらへ転んでも数字になるというのが、燈夜の考えだった。
「腹を切るって言ってなかった?」
イオは部室の隅にあるソファへ座り、紙コップのアイスコーヒーを飲んでいた。話す時も、欠けた奥歯を見せまいと唇を大きく開かない。
「胴を壊したら中身が飛び散るかもしれない。指なら仕掛けが単純だ」
怜吾は長机の周囲へカメラを配置していた。正面、真上、手元の接写用。人形の内部へ手を加えることには反対したが、燈夜が止めないと分かると、破壊前の状態だけでも記録しようと準備を始めた。
「撮影中に余計なところ触るなよ。断面へ皮脂が付く」
「まだ研究者ごっこする気か?」
「おまえが壊したあとで警察に押収される可能性もある。人の骨だったら、器物破損だけじゃ済まない」
「じじいの話、信じてんじゃん」
「可能性の話」
怜吾は素っ気なく答え、黒い手袋をはめた。
美怜は鏡の前で口紅を塗り直していた。自分の歯を一本ずつ舌で確かめる癖がついていたが、誰にも気づかれないよう、カメラへ向き直る前に笑顔を作る。
「配信、始めるよ」
午後七時。
部室の外では、講義を終えた学生たちの声がまだ廊下を行き交っていた。扉一枚を隔てた日常のざわめきが、遮光カーテンを閉めた室内では遠く聞こえる。
ライトが点灯し、人形の白い顔だけが闇から浮かび上がった。
「〈KOWASU〉特別解剖、第二弾」
美怜が人形の右手を持ち上げる。
「人間の歯が三十三本も生えてる白い子ちゃん。じゃあ、手の中には何が入ってるんでしょうか?」
待機していた人数が一斉に接続し、数秒で一万人を越える。
「候補は針金、木、プラスチック。本物の骨だと思うやつは投げ銭で予想して」
「金取るのかよ」
イオが笑い、美怜は舌を出した。
燈夜が人形の右腕をつかむ。
袖を肩まで捲ると、白い手首から指先まで細かな亀裂が走っていた。皮膚に見える部分は硬いが、関節の周囲だけは僅かに柔らかい。小指はほかの指より短く、内側へ曲げられたまま固まっている。
「先に計測」
怜吾が定規を添え、接写する。
「右小指、全長三・七センチ。表面は陶器質。付け根と第二関節に隙間がある」
「長い。折るぞ」
「待て。どこに力が――」
燈夜は両手で人形の小指をつまみ、外側へ反らした。
白い指が軋む。
きい、と細い声に似た音がした。
燈夜は口角を上げ、さらに力を込める。人形の腕全体が机から浮き、黒髪が天板を滑った。
「嫌なら動けよ」
指先を捻る。
ぱきん。
乾いた音とともに、小指が第二関節から折れた。
白い破片がライトを弾き、机へ散る。砕けた陶器の内側から、細い棒状のものが露出していた。
乳白色の芯。
表面は滑らかではなく、縦に細い筋が走っている。折れた中央には小さな空洞があり、その周囲を硬い層が囲んでいた。先端は丸く膨らみ、隣の芯と噛み合う関節の形をしている。
燈夜の笑みが止まった。
「針金じゃねえな」
怜吾が人形の手を受け取り、断面へレンズを寄せる。
「プラスチックだろ」
「中が空洞なのに?」
ちとせが机の反対側から覗き込む。
「成形方法によっては空洞になる。外側の筋も加工痕かもしれない」
「関節の丸みまで作る必要がある?」
「可動させるためなら」
「この指、元から動かなかったよ」
ちとせの指先が、折れた断面の寸前で止まる。
「人間の指の骨に似てる。子どもの中節骨。外側の硬いところと、内側の空洞まで」
「見ただけで断定するな」
「断定してない。似てるって言ったの」
怜吾は磁石を近づけたが、白い芯は反応しなかった。細い針で削ると巻き屑ではなく、灰色と黄土色の混じった粉が落ちた。
「樹脂なら削った面に光沢が出る。これは出ないな」
怜吾が呟く。
「じゃあ骨?」
美怜が問う。
「木材や石膏でも似た粉は出る。成分を調べない限り分からない」
怜吾は粉を透明な袋へ封じ、日時と採取位置を書き込んだ。
ちとせは折れた指先を見つめている。
「骨で人形を作るなら、普通は細かく砕いて胡粉へ混ぜる。こんなふうに関節の形を残して芯へ使うのは、人形を人に似せたいからじゃない」
「じゃあ何だよ」
「人の方を、人形の形に残したかったんだと思う」
燈夜が鼻で笑ったが、声は出なかった。
怜吾はピンセットで陶器片を除いた。白い芯の側面へ、赤黒く乾いた繊維が絡んでいる。糸に見えたが、一本ずつが枝分かれし、芯に開いた小さな穴へ入り込んでいた。
『完全に骨』
『プラスチックなら溶かせる』 『病院に持っていけ』 『通報した』 『人形の顔見て』美怜が最後のコメントを拾い、人形へカメラを向ける。
白い顔に変化はない。
ただ、閉じていたはずの唇が少し開き、歯の先が覗いていた。口角から透明な液が一筋、顎へ伝っている。
「泣いてんの?」
イオがソファから尋ねる。
「涎じゃない?」
美怜はティッシュで拭おうとした。
人形の歯が閉じた。
指先まで数センチの場所で、かちり、と噛み合う。
美怜は手を引き、誤魔化すようにティッシュを燈夜へ投げた。
「プラスチックか確かめてよ」
「簡単だろ」
燈夜がポケットから金属製のライターを取り出す。
「待て」
怜吾が制止する。
「燃やしたら成分が変わる。先に削って試料を――」
「プラスチックなら溶ける。骨なら燃える。配信で分かりやすい方がいい」
「換気設備もない」
「窓開けろよ」
燈夜は人形の手を持ち上げ、露出した白い芯へ火を近づけた。
青い炎の先端が触れる。
初めは何も起きなかった。
プラスチックのように軟らかくもならず、表面へ煤が付くだけだった。燈夜は苛立ち、炎を強く押し当てる。
白い芯の内側から、小さな泡が滲んだ。
じゅ、と脂の焼ける音がする。
煙が立った。
細く白い煙は天井へ昇らず、五人の顔の高さを這うように広がった。焦げた髪と古い肉を一緒に焼いたような臭いが、部室中へ充満する。
イオが激しく咳き込んだ。
「臭っ……何これ」
美怜は袖で鼻と口を覆い、窓へ向かう。遮光カーテンを開けた瞬間、廊下の明かりが差し込み、煙の中に小さな人影を浮かび上がらせた。
部室の奥。
誰も座っていない椅子の前。
白い服を着た女の子が立っているように見えた。
美怜が瞬きをすると、煙が崩れた。
そこには空の椅子しかない。
「換気扇!」
怜吾の声で我に返り、美怜は壁のスイッチを押した。低い唸りとともに煙が吸い上げられていく。
燈夜はまだライターを離していなかった。
白い芯の表面が茶色く焦げ、細かな亀裂が走っている。溶けた形跡はない。
怜吾が断面へライトを当てると、焦げた層の奥に蜂の巣のような細かな穴が見えた。
「熱可塑性の樹脂なら形が崩れる。これは炭化してる」
「骨も燃えるの?」
イオが鼻を押さえたまま尋ねる。
「有機質を含んでいれば焦げる。髪や爪と同じ成分もある」
怜吾自身が、部屋に残る臭いを確かめるように黙った。森部の声が、美怜の耳に蘇る。
――それは、人の中身で作ったものだ。
「もういい。火を消せ」
怜吾が燈夜の手首をつかんだ。
その瞬間だった。
ぽき。
人形ではない場所から、音がした。
燈夜の右手。
ライターを握っていた小指が、第二関節から外側へ曲がっている。
人形の折られた指と、同じ角度だった。
燈夜は数秒、自分の手を見つめた。
痛みが遅れて届いたように、喉の奥から短い息が漏れる。額へ汗が浮き、眉間に深い皺が寄った。
「燈夜、その指」
美怜の声が掠れた。
「さっき机にぶつけた」
「ぶつけてないよ」
イオが即座に否定する。
「ぶつけたっつってんだろ」
燈夜は笑おうとした。
口角は上がったが、頬が引きつっている。曲がった小指を左手でつかみ、元へ戻そうと力を込めた。
関節の内側で、何かが動いた。
かり。
小さな爪が、骨の空洞を内側から引っかくような痛みが走る。
「っ……」
燈夜の膝が机へ当たった。
「病院行った方がいい」
ちとせが手を伸ばす。
「触んな!」
燈夜は腕を振り払った。
その動きに合わせ、折れた人形の小指が机の上で跳ねる。
誰も触れていない。
小さな骨の芯が天板を叩き、燈夜の指の内側でも同じ音が返った。
かり、かり。
皮膚の下から引っかかれるたび、燈夜の指先が痙攣する。爪の色が白くなり、関節の周囲だけが赤黒く腫れ始めた。
燈夜はポケットへ手を隠そうとしたが、その前に小指の皮膚が内側から持ち上がった。
爪の先ほどの小さな膨らみが、付け根から第二関節へ移動していく。かり、と音がするたび、皮膚の下を進み、曲がった箇所で止まる。
そこから同じ道を戻った。
見間違いではなかった。美怜も、イオも、怜吾のカメラも捉えている。
「中に何かいる」
イオが囁く。
「腱が動いてるだけだ」
「腱は爪立てないでしょ」
「うるせえ」
怜吾が保冷剤と固定用テープを差し出した。
「少なくとも冷やせ。神経や血管を傷つける前に整形外科へ行った方がいい」
「配信終わってからでいい」
「終わるまで右手を動かすな」
燈夜は返事をせず、保冷剤だけを奪った。冷たさが触れた瞬間、指の内側からまた爪を立てられ、奥歯を噛み締める。人形の口も同じように閉じ、三十三本の歯を鳴らした。
「痛いんでしょ」
美怜がカメラの外から尋ねる。
「痛くねえよ。骨折くらいで騒ぐな」
「骨折してるって認めてんじゃん」
「ぶつけたって言ってんだろ!」
怒鳴り声が部室に響く。
直後、燈夜は配信中だと思い出したようにレンズへ目を向けた。二万を越える人間が、曲がった指と青ざめた顔を見ている。
彼は右手をポケットへ押し込み、椅子へ乱暴に腰を下ろした。
「仕込み成功。びびったやつ、投げ銭な」
額から流れた汗が顎へ落ちる。
『人形と同じ指曲がってる』
『ぶつけた場面なかった』 『後ろで女の子が手振ってる』 『五人とも見えてないの?』 『これもう配信やめた方がいい』「女の子?」
怜吾がコメントへ顔を寄せた。
時刻は、燈夜が白い芯を火で炙り始めた直後を示している。
怜吾は配信を続けたまま、遅延確認用の画面を巻き戻した。
人形の指へ炎が当たる。
煙が広がる。
画面の右奥、使われていない木製の椅子。
そこに誰かが立ち、片手を振っていたと、複数のコメントが同じ時刻を指定している。
視聴者が切り取った画像が、配信の共有欄へ次々と貼られた。
肩までの黒髪。膝下まである白い服。俯いた顔は髪に隠れ、上げた右手だけが異様に白い。五本の指のうち、小指だけが外側へ折れている。
画像ごとに立つ位置や腕の高さは僅かに違う。しかし怜吾の記録映像では、同じ場所に空の椅子しかなかった。
映像には何もいない。
煙の濃淡すら、少女の形には見えなかった。
「どこ?」
美怜が怜吾の肩へ手を置く。
「この椅子。俺には何も見えない」
「私も」
「コメント稼ぎでしょ」
イオが言ったが、ソファから立とうとはしなかった。
ちとせは椅子を見つめている。
「あの子、屋敷にもいた」
「見たの?」
「形だけ。美怜もさっき見たんじゃない?」
美怜は答えなかった。
煙の中に浮かんだ白い服。細い腕。こちらへ向けて上げられた手。
手を振っていたのではない。
指を見せていたのかもしれない。
怜吾は映像を一コマずつ進めた。
空の椅子は、部室の備品として置かれた古い木製のものだった。座面には茶色い布が張られ、中央が僅かに窪んでいる。
炎が骨へ触れた瞬間、窪みが深くなった。
「止めて」
怜吾が映像を静止する。
「椅子、動いてる」
「脚は動いてないよ」
イオがモニターを覗き込む。
「座面だ」
再生速度を落とす。
誰もいない椅子の布地が、一度大きく沈んでいた。見えない小さな身体が腰を下ろしたように、中央から皺が広がっている。
煙が晴れる直前、座面はふっと持ち上がった。
誰かが立ち上がった直後のように。
それから布地だけが、ゆっくり沈み直していく。
何も映っていない空間へ向かって、人形の白い顔が僅かに傾いた。
燈夜のポケットの中で、曲がった小指が同じ方向へ引かれた。
「ぐっ……」
押し殺した声とともに、彼の身体が椅子からずれた。
空の椅子の座面が、もう一度深く沈んだ。
今度は、配信を見ていた全員にも分かるほど大きく。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押